食べられる口

院長の長谷川です。口は体の玄関です。そして命の入り口。

Sの訃報を聞いた帰り道は、白い大きな満月が輝いていた。歯科医としての私は、Sに十分なことをしてあげられたのか…Sにとって、口の主治医は私だったから。自分の力のなさが情けなくなるばかりである。

Sは、私に近いものであり、患者さんでもあった。2年間の癌との闘いが終わった。1週間ほど前に、Sに頼まれ、お口の中をきれいにしたばかりだった。

癌と診断され、服薬が始まる。主治医に「抜歯する歯があると困るから、歯の治療をしてくるように」と説明され、私に病気のこと、治療内容の話をせざるをえなかった。右下に根尖病巣をもった歯があったが、神経の治療で保存できた。治療の終了を待ち、癌の治療が開始された。その後も、口腔内をきれいに保つため定期的に来院していた。9月に検診に来た時に、「次は12月に。忙しいのでまた日程は連絡」という事になった。

亡くなる1週間ほど前に、Sの口腔内を診た。Sの妻から連絡が来て、「Sが私に口腔ケアをしてほしい、看護師さんにどのように口腔ケアをするべきか教えて欲しいと言っている」という内容だった。ほとんど食事をとれていないと聞いていたので、仕事を調整し、特急電車に乗り込んだ。入院時、口腔内がきれいだとほめられたと聞いていた。でも、その時の口腔内は悲惨だった。神経質なまでに歯を磨いていたSの口腔内が本当に可哀そうだった。舌も口蓋も、咽頭も痂疲が形成されていた。重度の口腔乾燥に全身状態もかなり悪いのだろうと思われた。これでは何も食べられないし、食べる気持ちにもならないだろう。私が今まで診た中で、最悪の口腔内だった。終末期の口腔内はこんなにも悲惨なのか…だからみんな誤嚥性肺炎でなくなるのだと思った。

歩けなくなり、ベット上の生活が長くなる。重力は下顎を開口させる方向に負荷をかけ、下顎も後退位となる。顎関節は関節窩のなかで後壁におしつけられ、咀嚼するために直立位でいるより筋力が必要になる。舌も後退し沈下する。嚥下しようとしても咽頭に入る前に舌根が咽頭を閉鎖して嚥下を困難にする。入院患者さんたちはこんな状況なのかと改めて思う。Sの顔を見たら、泣いてしまうのではないかと思っていたが、歯科医としてSに接触することができた。いきなりブラシをかけてはいけない。まず、保湿。そして取り除いたものを口腔内に落とさないよう、早く口腔内をきれいにしてあげよう。

次の日もSを訪ねた。口腔内は7割きれいになっていたと思う。食事をとる意欲がでて、少量ではあるが食べ始めたと聞いた。「舌が前に出る?」と尋ねると舌を突出させた。「左右にも動かしてみて」というと、舌を動かした。「頑張って、口から食べないとだめだよ」というとコクッとうなづいた。Sは最後まで口から食べることを望んだそうである。自力で立つことを目標に筋力の落ちた足でリハビリも頑張ったと聞いた。

死は、誰もが必ず迎えるものである。私は特別な歯科医ではないから、寿命を延ばすような治療はできない。でも、最後まで食べられる口であるように患者さんに情報を与えることはできる。Sとの経験を無駄にしないよう、患者さんと関わっていきたいと思う。

Sちゃん、ご苦労様でした。あなたのためにもっと何かできたのではないかと自問自答する日々です。
ご冥福をお祈りいたします。